INTRODUCTION イントロダクション

ウィリスが母性本能を掻き立てる異色の“処刑人”を快演!
折田千鶴子(映画ライター)

ブルース・ウィリスが外科医役!? そこだけ聞きかじり、思わず「イメージに合わな~い」とつい目を大きくした人は少なくないだろう。大スターとなって久しい今も、そんなふうに軽々しくツッ込める親密さを、ウィリスは醸し続けている。だから、みんなウィリスが大好きなのだ。そんな期待は百も承知とばかりに、本作でウィリスは邪な“演技派気取り”をすることなく、冒頭、手術ポーズの後に血管を押さえて死亡時刻を告げるだけの姿に、“おい~っ!!”とのっけからツッコませる、そんな逆サービス精神が素晴らしい。エンタメに徹した潔さに、またも惚れ惚れなのである。

本作がチャールズ・ブロンソン主演の『狼よさらば』のリメイクであることは、他頁で触れられているだろう。そのオリジナルに数々のオマージュを捧げながらも、救いのないペシミスティックな空気が充満していたオリジナル版とは大いに趣を異にし、本作には厭世に傾かない、どこかオプティミスティックなムードが漂っている。物語、とりわけ主人公ポール・カージーの娘の運命の違いが大きく作用してもいるが、やはりブルース・ウィリスという男が漂わせる人好きのする愛嬌こそが、ハードな“自警による処刑”をテーマにしながらも、ポップささえ漂うアクション・エンタメになし得たのだと思わずにいられない。男が陶酔する孤高のブロンソンの渋みとは一味違う、マッチョなのにキュートで母性本能をくすぐるウィリス。女性も楽しめる間口の広がりを監督もウィリスも目指したゆえなのは間違いないが、63歳となった今なお定期的に一枚看板を背負って立ち、男女を問わずみんなに愛されるウィリスの魅力、恐るべし、である。本人も大いに自覚しているように、刑事やCIA、殺し屋や軍人といった男くさい役を繰り返し演じてきたウィリスは、アクション・スターのイメージが濃厚だが、容易に思い出せる代表作の一つ『シックス・センス』(99)で演じたのも、“精神分析医”と、同じ医師。そこで少年と対峙したウィリスは、微かな肉体や表情の動きの中に、繊細で心が震えるような感情の揺れを流し込んだ。むしろウィリスは、A級とB級を自在に行き来する“アクションも得意な演技派”という表現が実は最も適切なのである。一度は“アクションはもうやらん!”とカマしたこともあるが、ゴリゴリ男臭いだけではない“女性もほだされる系”アクションを、またも生き生きと演じている。

さて、冒頭で“警官を撃った犯人を救うのか”と責められるように、人の命を救う使命を全うしてきた外科医ポール・カージーは、急転直下、皮肉な運命にさらされる。その前に挿入される儚き幸せな家族の肖像、いかに彼が妻や娘と愛に満ちた関係を築いていたかを印象づける短いシークエンスは、女性観客の心を掴むのに十二分に効いている。まさに元祖セクシー・ハゲの本領発揮! 外では優秀な外科医、妻の前では少々甘えん坊という、女性の大好物をウィリスが体現。娘が大学生になる嬉しさと寂しさを同時に滲ませ、妻に“そんな顔しないの”と魅惑のスキンヘッドを抱きしめられる、たまらなくチャーミングな姿を一瞬で刻印する。果たして最愛の家族を奪われ、絶望と怒りに燃えるカージーは、亡き妻の父親が密猟者を銃で追い払い“警察が来るのは犯罪が起きてからだ”と自警の必要性を説く芸の細かいエピソードを挟み、“姿なき悪人”を排除すべく、“死神”へと姿を変えていく。

描かれる状況はたまらなくシリアスだが、ネットで銃の使い方を覚えたり、訪れた銃器店でギャル系美女に目をしばたたかせる姿に、つい小さく噴き出してしまう。だが一転、アクション・シーンはココぞとばかりに超ハード! 銃の握り方も知らずに怪我をした外科医が、娘の話になると目の色や表情を豹変させ、終いには裏社会の男どもを地獄に突き落としていく、成長物語のような側面を持ちつつ、リベンジを果たすカタルシスをもたらす。かと思えば外科医らしくメスで犯罪者を痛めつけ、始末する場面では、“外科医の腕を発揮するのは、そこか~い!”とツッコませてくれる。緩急自在の魅力がさく裂! “自警の是非”という問題や、カージー自身の処遇も、ポップな味わいのもとに“コレはコレでアリだよね”と許させてしまう。

昨今、多分に意味のないリメイク作が散見される中、主人公の人間像を含め、1974年から2018年への社会の変化が至る所でアップデートされ、本作を興味深く意義あるものにしている。SNSやネット拡散など、現代的なアイコンをちりばめただけではない、ウィリスが絶妙に演じたポール・カージーという“男像”の変化も含め、犯罪の質や警察の立ち位置、人々の感覚から関係性まで、なかなか興味の尽きない作品となってもいる。ウィリスに関して言えば、大ブレイクした『ダイ・ハード』(88)以来、多ジャンルに出演しながらも、定期的に定位置に戻って“ヘタレ男、頑張る!”的な役を飄々と演じ続けてきただけに、この先も“動けなくなる”年齢を逆に生かし、アクションだってまだまだイケるに違いない。なるほど、本年度以降、大小合わせて主演作がすでに5、6作も公開を控え、さらには『ダイ・ハード6』が動き出しているニュースに、血が騒がずにいられない!

イーライ・ロスの映画的シネマティックな、
そして驚くべき「生真面目さ」についての断章
高橋ヨシキ(映画ライター)

実際のところイーライ・ロスは本作を含め、これまでに3本の映画を監督としてリメイクしている。『食人族』をリメイクした『グリーン・インフェルノ』、『メイクアップ』をリメイクした『ノック・ノック』、それに今回の『デス・ウィッシュ』。『グラインドハウス』の映画内映画として監督した『感謝祭』や、『イングロリアス・バスターズ』のやはり映画内映画『国家の誇り』のようなパスティーシュ作品もあるが、これについては後述する。

さて『グリーン・インフェルノ』『ノック・ノック』それに『デス・ウィッシュ』、3本のリメイク作品──確かに『グリーン・インフェルノ』は公式には『食人族』の直接のリメイクではなく、内容もどちらかといえば『人喰族』寄りではあるが、この映画は「イタリア製食人映画」というジャンル自体の「リメイク」と考えるべきであり、同ジャンルの代表作であり突出した完成度を誇る『食人族』へイーライ・ロスが寄せる多大なリスペクトを思うと、やはり敢えて〈『食人族』のリメイク〉と呼ぶのがふさわしいのではないかと思えるのだ。閑話休題──いま一度繰り返すことをご容赦いただきたいが、この3本のリメイク作品を手がけるにあたってイーライ・ロスは、持ち前の「生真面目さ」を遺憾なく発揮したといえる。ハーバード大学医学大学院教授で精神科医の父親と画家の母親の間に生まれたイーライは、ニューヨーク大学芸術学部を卒業したサラブレッドである。同学部は数えきれないほどのスターや監督を輩出した名門校で、「同学部卒の有名人」というページが英語版ウィキペディアにあるほど(「アカデミー賞受賞者」「エミー賞受賞者」などというジャンルで分けてあるのだから恐れ入る)。マーティン・スコセッシ、オリバー・ストーン、ニール・サイモン、レディー・ガガ……絢爛豪華な卒業生名簿は見ているだけでめまいがするほどだが、イーライ・ロスは以前筆者のインタビューに答えて「でも同級生は背伸びしてアート映画の話をしているような奴ばかりだったよ。俺は当時から血まみれのコメディなんかを作っていたけど、クラスの中でプロの映画監督になれたのは俺だけだ!(大意)」と語っていたので、名門校であっても若きクリエイター志望者の多くに見られる「しょうもなさ」は健在だということが分かり、ちょっとほっこりした気分になったものである。

なお、これまた余談になってしまうが、学歴のいかんを問わず、頭のキレる人の方がスプラッター映画などキワモノ的なジャンルを好むという学説があるらしく、それによれば頭脳のキャパシティが広い人間の方がいわゆる「チープ・スリル」を本気で楽しむ能力に長けているということらしい……が、こういう「という学説があって」などというインターネット記事のほとんどが、読み手(この場合は筆者のように血まみれ映画が好きな人間)」のプライドをくすぐるだけの信憑性に欠けるものであることは言っておくべきだろう。とはいえ、筆者の周囲の血まみれ映画好き、ヘンテコ映画好きの人々がおしなべて頭脳明晰なことは事実であり(筆者はまったくその逆で、映画の題名一つまともに思い出せないのだが)、そのため体感としてこのインターネット記事はたとえヨタ話だったとしても得心のいくものであった。

イーライ・ロスの作品の特徴は、本人が育つなかで、あるいは教育によって、あるいはトロマ映画で働いた経験などから学び取り、自身のものとした生真面目さと深く結びついている。『デス・ウィッシュ』も含め、自作に必ず不必要であってもゴア場面を入れるのは、ジャンル的な表現に対して生真面目な誠実さで応えた結果である。

このことは映画作りの手法や状況そのものを「リメイク」しようとする、イーライ・ロス独特の身振りにおいても同様である。今回の『デス・ウィッシュ』の製作には紆余曲折があったので、全てが意図的だというのには無理があるかもしれないが、公開前から巷間で取りざたされた「ブルース・ウィリスはミスキャスト」という批判は明らかにおかしい。彼らが根拠として挙げる「原作小説では主人公はごく普通の男」という部分についてはそのとおりだが、オリジナル版映画の主役は当時すでにマッチョなイメージが定着していたチャールズ・ブロンソンであり、当時の観客は「ブロンソンがいつブチ切れて悪党どもを殺すのか」、を期待して映画館に足を運んだのである──今回のリメイクのように。その視座からすれば、リメイク版『デス・ウィッシュ』のキャスティングが「当時の観客がオリジナル版に対して抱いた感覚」を現代の感覚のうちに再構築リメイクさせんとする驚くべき試みだったといえる。この解釈に一定の説得力が付与されるべき理由としては『グリーン・インフェルノ』が、『食人族』または当時のモンド映画における「映画の撮影自体が未開の地における冒険とイコールで繋がっていうる」という映画作り体験を再現リメイクするために、イーライ・ロスが実際の未開の種族と接触した上で彼らに土着の食人族を演じさせた、という事実を挙げることができる。モンド映画や食人映画の肝とも言える「虚実ないまぜ」の「実」の部分を敷衍することは、生真面目なイーライ・ロスにとっての最重要課題でもあった。

映画内に登場する架空の予告、という特異な『感謝祭』の撮影にあたってわざわざ作品がモデルとしている80年代前半のスラッシャー映画の撮影で多用されたビンテージの16ミリカメラを探し出して使用した、という逸話は実にオタク的だが、ここにも明らかに育ちのいい「生真面目さ」が見られる。生真面目さのせいで、マニア的なキモさが減じて見えるのも興味深い。本編の中ではおそらく1分程度しか映らないナチスのプロパガンダ映画を「再現リメイク創造クリエイト」した『国家の誇り』を、7分の尺を持ち、それ一本で完結した短編映画として完成させたのもひとえに「生真面目さ」の為せる技であった。もちろん、完結した短編プロパガンダ映画が実際に存在した方が、それを内包する本編(『イングロリアス・バスターズ』)を監督したタランティーノにとって作業しやすい環境となることを見越していたのだろうし、それもまたイーライ・ロスや「生真面目さ」の発露である。

イーライ・ロスを含め、多くの優れた、そしてまっとうな映画人が、映画史それ自体やさまざまなジャンルに寄せる「生真面目さ」は「誠実さ」という言葉で置き換えることが可能である。映画的シネマティックな意味での「誠実さ」はジャンルや作品の内容に回収され得ない。血まみれで暴力的で、また作品内の人物の行動や思考様式がいかにポリティカルな意味で最悪であろうが(一応注意を喚起しておきたいが、作品内の人物の行動や発言を作者のそれと同一視するのは決定的に間違っている。そういうことをわざわざ言わなくてはいけない時代になってしまったことは情けないことであり、教育が再び必要である)、ナチや食人族が劇中で横暴の限りを尽くそうが、作り手のシネマティックな「誠実さ」が根底にある限り、その作品は常に一定の真剣さをもって受け取る必要があるのであって、であればこそイーライ・ロスの作品群と対峙するとき、我々も自分の「生真面目さ」と向き合わなくてはいけないのである。